『穏やかさ』を得る為に『感謝』の気持ちが大切です。の続きを掲載します。
小林正観さんは、認識力が上がるにしたがって、この世の中を「3つの段階」で解釈するようになります。
第1段階…… 「この世は、修行の場である」
第2段階…… 「この世は、喜びの場である」
第3段階…… 「この世は、感謝の場である」
とお書きになられておられます。
たとえば、自分の会社が倒産し、職を失ったとします。
そのとき、「自分はこういう状況に耐えて、我慢し続けることで人生の修行をしている」と、「第1段階」のとらえ方をする人がいてもおかしくありません。
ところが、認識力が「第2段階」まで上がっていると、「この会社を辞めて新しい仕事ができることは、とても嬉しく、楽しく、幸せなことだ」と思うようになります。
そして、認識力のいちばん奥にある「第3段階」では、「新しい仕事を探さなければいけなくなったからこそ、天職や天命に出会える」と、「会社が倒産したこと」にも感謝できるのです。
私は、「感謝の場だととらえるべきだ」という「べき論」を言っているのではありません。
「修行の場」だととらえることで、人生が楽しくなるなら、それでもいい。
しかし、「修行の場」と思うよりも「この世は感謝に満ちている」と考えることでラクに生きられるのであれば、そのように認識を変えればいいと思います。
現象自体はゼロです。「修行」でも、「喜び」でも、「感謝」でも、どんな色をつけても自由です。
自由とは「自ら由る」と書きます。
自由のとらえ方、認識の力が、この世の評価を決めるのです。
人の間で生きるということは、「自分が必要とされている」ということです。
「人間」の生きる目的は、ほしいものを得たり、何かを成し遂げることではなく、「人の間で喜ばれる存在になること」「『ありがとう』と言われる存在になること」にほかなりません。
発する言葉や表情など、その人のふるまいが「まわりを喜ばせるもの」になっていれば、投げかけた結果として、まわりの人があなたにとっての「よき仲間」になってくれるでしょう。
以上です、なるほど! と思いますが、この段階の意識状態に至る事は難しいのかもしれません・・・
メッセージで伝えられている『人は本来自由な存在です。起きている事に対して、あれこれ制限や理由を付けているのは自分自身であって、体験している事柄に悪意などの意思はありません。』に通じる考え方なのだろうと感じますし、目指すべき究極の高みの場所であると信じたいと思っています。